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第16回企画展示 近世寒川の領主群像―うちの殿様はどんな人?―
(会期:平成26年3月9日〜8月31日)


展示風景
展示風景
 江戸時代の寒川町域11ヶ村は、二十数家の旗本等が分け持つ、複雑な支配が行われていました。
 そのなかには大岡忠相や田沼意次など教科書でもおなじみの人物がいましたし、江戸城の医師や琴の名手など多彩な顔ぶれもありました。
 村との関係などを示す古文書をはじめ、系図、役職の記録などから、彼らの素顔に迫ります。

近世寒川の村々・領主のうつりかわり

 江戸時代初頭の寒川町域には、田端村・一之宮村・中瀬村・大曲村・岡田村・小動村・宮山村・倉見村の8ヶ村が存在しました。その後、元禄年間(1688〜1704)以前に岡田村と大蔵村・小谷村が分村し、同時期に大曲村が大曲村(上大曲村)と下大曲村に分かれ、現在の寒川町域を構成する11ヶ村が誕生しました。
 これらの村々の多くは、禄高500〜1,000石前後の中級クラスの旗本によって支配されていました。幾度かの領主の交替を経て、最終的に大名1家・旗本18家+寺社領で明治維新を迎えています。
寒川町域11ヶ村

領主と村々とのかかわり

 江戸時代の初めには、旗本たちは知行地に陣屋を設けたり墓所を置くなどし、村々と深くかかわっていましたが、17世紀の半ばを過ぎると、彼らのほとんどは江戸に居住するようになり、自らの知行地にやってくることはなくなりました。
 とはいえ村々にとって、誰が領主になるかは、きわめて大きな問題でした。領主と村々とは、年貢や御用金の賦課・納入を軸としながらも、さまざまな形の絆で結ばれていたのです。
倉見ちびっ子広場の一角にあったと考えられています。
倉見 高木氏陣屋跡

@ 田端村

 田端村は江戸時代初頭、旗本(のち遠江国掛塚藩主)加々爪氏・旗本本間氏の相給でした。しかし天和元年(1681)に加々爪氏の知行地は没収され、元禄13年(1700)になって旗本高木氏へ与えられました。その後は、本間・高木両氏の相給地として幕末に至っています。
加々爪氏家紋

本間氏家紋

A 一之宮村

 一之宮村も、田端村と同じく江戸時代初頭から天和元年(1681)まで加々爪氏が支配していましたが、元禄10年(1697)、松平忠和と森正慶という二人の旗本の知行地となります。その後はおおむね幕末に至るまで松平・森両氏の相給地でした。
 森氏は幕府に仕える医師(番医)の家柄で、歴代当主のなかには小石川養生所の医師をつとめた者もいました。

慶応2年(1866) 松平氏より名主宛下賜状
(入沢章さん蔵・当館寄託)

松平氏家紋

森氏家紋

B 中瀬村

 中瀬村の領主は旗本春田氏です。江戸時代を通じて、中瀬村を一給で支配しました。
 幕末維新期の当主である春田与八郎は、開成所(東京大学の前身)で英語教員として教鞭を執り、明治維新後は静岡に移住し静岡学問所の教員などをつとめました。

春田氏家紋
静岡地方合同庁舎の手前にあります。
静岡学問所跡
(静岡市葵区)

C 大曲村

 大曲村は江戸時代初期、幕府の直轄領だったともいわれますが、詳しくはよく分かっていません。ただ、貞享3年(1686)以降しばらくの間は小田原藩領だったようです。その後、元禄15年(1702)までには旗本本間氏の知行地となっています。
本間氏家紋
本間季光は、本間氏が大曲村を賜った際の当主です。
本間季光の墓
(茅ヶ崎市香川 玄珊寺)

D 下大曲村

 下大曲村の領主は大岡氏です。もともとは旗本でしたが、有名な大岡越前守忠相のときに加増を重ね大名となり、西大平藩主となりました。その後も、下大曲村は幕末まで西大平藩領として続きました。
大岡氏家紋

西大平藩陣屋跡
(愛知県岡崎市)

左:大岡忠相公廟宇塋域修築の碑(表)
右:大岡忠相公頌徳碑(裏)
(茅ヶ崎市堤 浄見寺境内)

E 岡田村

 岡田村の領主変遷はかなり複雑です。江戸時代初頭は旗本筒井氏と和田氏が治めていましたが、元和9年(1623)には和田氏にかわって旗本石川氏が入っています。
 元禄15年(1702)の段階では、筒井・石川両氏に加え旗本高木氏も知行地を有していたことが確認できます。しかし高木氏の知行地は享保7年(1722)に没収され、田沼意次で有名な田沼氏に与えられましたが、天明2年(1782)には幕府へ返還されました。
 その後、田沼氏旧領に旗本飯田氏・小笠原氏が入り、筒井氏・石川氏・飯田氏・小笠原氏の四給で治められていましたが、幕末の慶応年間(1865〜68)に旗本新井氏が加わり、最終的に五給で明治維新を迎えました。

筒井氏家紋

和田氏家紋

飯田氏家紋

小笠原氏家紋

新井氏家紋

F 大蔵村

 大蔵村の領主は、岡田村の領主でもある旗本石川氏です。
 石川氏がいつ頃から大蔵村の領主となったのかは、確定はできませんが、おそらく江戸時代初期の寛永年間(1624〜44)のことだと考えられています。

石川氏家紋

石川氏墓所
(横浜市戸塚区上矢部 大善寺)

G 小谷村

 小谷村は江戸時代初頭には幕領だったと思われます。その後、大曲村と同じく、貞享3年(1686)以降のある時点からしばらくの間小田原藩領でしたが、元禄10年(1697)、小田原藩にかわって旗本戸田・高木・森川・長谷川の四氏が領主となりました。
 その後、領主の交替を経て(長谷川氏→柳生氏)、最終的に戸田・高木・森川・柳生氏の四給となりました。

小田原城天守閣

大久保氏(小田原藩)家紋

戸田氏家紋

高木氏家紋

森川氏家紋

柳生氏家紋

H 小動村

 小動村は江戸時代初頭から旗本保々氏が治めていましたが、享保12年(1727)幕領に編入されました。享保18年(1733)、岡田村とともに旗本田沼意行の知行地となりましたが、天明2年(1782)にふたたび幕領となります。4年後の天明6年(1786)に石見国浜田藩領となりますが、わずか7年でみたび幕領となりました。その後文化6年(1809)、旗本松平氏の所領となり幕末に至っています。

相良城跡
(静岡県牧之原市相良 牧之原市史料館横)

天明2年(1786) 小動村の田沼領への復帰願い
(当館蔵阿部家文書)

保々氏家紋

田沼氏家紋

松平氏(浜田藩)家紋

松平氏(旗本)家紋

I 宮山村

 宮山村には中世、寒川神社の広大な社領地がありましたが、天正19年(1591)11月、徳川家康の朱印状により改めて社領100石が安堵され、江戸時代を通じて維持されました。
 それ以外の地域については、8,000石の大身旗本である杉浦氏が支配しています。

杉浦氏家紋
宮山緑地の中心にあります。
杉浦氏が整備したと
伝えられている溜池(弁天池)
杉浦氏役人による知行地巡見の記録です。
天保14年(1843) 杉浦氏代替わりにつき領内巡見控
(皆川邦直さん蔵)

J 倉見村

 倉見村は江戸時代初頭から旗本高木氏の一族によって支配されていましたが、そのうちの一部は17世紀中期〜末にかけて高木氏の手を離れ、幕領となりました。この幕領は元禄10年(1697)、旗本佐野氏に与えられました。
高木氏家紋

佐野氏家紋
高木清方は江戸時代初頭、倉見村を支配していました。
高木清方墓所
(倉見 行安寺)
佐野義行が11代将軍徳川家斉に随行して尾張藩江戸下屋敷を訪れた際の記録です。
佐野義行が著した『とやまの春』
(国立公文書館蔵)

展示ケース

 旗本杉浦氏3代目の当主である杉浦正職(まさもと、1671〜1711)は、18世紀初頭に宮山村を治めた領主です。
 元禄12年(1699)、29歳のときに祖父の家督8,000石を継ぎ、御書院番頭や駿府城在番などをつとめました。
 正職は武の技に良く通じるとともに文化人としても知られており、明からの亡命僧心越禅師に師事して禅と七弦琴を学び、琴川と号して自ら作曲も行いました。また、水戸藩主徳川光圀とともに詩を詠むなど、風雅で知られた人物だったようです。
杉浦正職の事跡をたたえたもので、贔屓(ひき)という亀に似た想像上の動物の背中に碑石が立てられています。
杉浦正職の顕彰碑
(京都府亀岡市馬路町)
杉浦氏の家譜、軍役、歴代の墓所や戒名などのほか、杉浦正職に関する記事が書き留められています。
旗本杉浦家八千石陣立御料地
(当館蔵)
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