寒川総合図書館・寒川文書館:文書館をご利用の方

特別展 記録にみる流行病(はやりやまい)
 (会期:令和2年9月1日〜)




 はじめに

 今年は世界中で新型コロナウィルス感染症が猛威をふるい、私たちの日常生活もさまざまな対応を余儀なくされました。長い人類の歴史のなかで、疫病は何度も繰り返し襲ってきましたが、先人たちはそれにどのように立ち向かったのでしょうか。
 この展示では、寒川文書館で保管する地域資料や公文書を中心に、地域の人たちの伝染病や感染症との闘いの記録をご紹介します。今後の疾病対策や生活の心構えの参考になれば幸いです。
 当初は、パネルを作成し、文書館にお越しいただいてご覧いただく予定でしたが、感染症拡大防止のため、多くの方にご来館を促すことは避け、インターネット上の展示といたしました。ご理解を賜りますようお願いいたします。
 開催にあたりましては、資料所蔵者や関係者の皆様にご協力いただきました。あらためて感謝申し上げます。

アマビエの図
『肥後国海中の怪(アマビエの図)』(京都大学附属図書館所蔵)
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 疫病退散の象徴として、注目を浴びている妖怪・アマビエ。弘化3年(1846)4月中旬に刊行された木版画で、瓦版として流布したものと考えられています。
 肥後国(現・熊本県)の海中で毎晩光るものがあったので、役人が見に行ったところ、アマビエと名乗るものが現れ、「当年より6か年間は諸国で豊作がつづくが、同時に疫病がはやるので、私の姿を描き写し、その絵を人々に見せよ」と告げ、海中へ戻ったとあります。

 1 江戸時代のコレラ

 わが国で初めてコレラが流行したのは文政5年(1822)でしたが、この時の被害は西日本が中心でした。全国的な流行をみせたのは安政5年(1858)と文久2年(1862)で、特に安政5年の際は、同年7月、長崎に端を発し、翌月には江戸をはじめ全国に飛び火。亡くなった人は江戸だけで少なくとも10万人以上といわれています。相模国(現・神奈川県)では小田原から各地へ広がったという記録があり、関東全域では関東取締出役が被害状況の調査を行っています。
太平年表録
「太平年表録」巻三(茅ヶ崎市文化資料館蔵)
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 柳島村(茅ヶ崎市)名主であった藤間柳庵が書き留めた幕末維新期の記録。安政5年(1858)7月の項ではコレラの流行の様子を克明に記しています。これによれば、病の流行は西から急激に広がり、相模国内では、小田原宿において参勤交代の途上だった松平隠岐守(伊予松山藩)の家臣たちが次々と倒れたことに始まったとあります。そこから東海道に沿って江の島、三崎・浦賀に広がり、人々は地域の氏神はもとより、江の島弁財天や大山不動尊など神仏にすがったといいます。
異病死失人書上帳
「異病死失人書上帳」(当館寄託入沢章家文書)
大曲村死失人書上
「御書上帳(大曲村)」(当館寄託入沢章家文書)
死失人一覧表
一之宮村寄場組合 安政5年のコレラ死亡者
(「異病死失人書上帳」より作成)
 関東一円の治安を担っていた関東取締出役は、配下の寄場組合に命じ、被害状況の把握を行いました。一之宮寄場組合では安政5年(1858)9月、各村から死亡者や救恤金などの報告を募ったところ、別表のとおり28か村のうち8か村で36名が亡くなったことがわかりました。このうち大曲村では男性9人、女性4人の計13人が亡くなっており、組合の中で最も被害が大きいものでした。

 2 寒川神社と感染症

 寒川神社は明治4年(1871)5月、国幣中社に列せられ、国家神道の中枢としての役割を果たすことになりますが、一方で地域の人びとの信仰のよりどころとして、旧来からの祈祷も行いました。神社日誌によれば明治10年10月27日、宮山・倉見の人たちのためコレラ退散の祈祷を行ったとあります。明治30年代には赤痢が流行し、浜降祭が中止になりかける一幕がありました。
村内病疫平癒祈願祝詞
村内病疫平癒祈願祝詞 (明治14年か、寒川神社蔵)
 寒川神社の京極高富宮司(明治13年2月〜17年2月在任)があげた祝詞。寒川神社のご神徳をもって、村内の疫病が治まり氏子の病が快復するよう願っています。寒川神社日誌の明治14年(1881)10月18日条に「病除祈祷祭」が執行されたとあるので、この時の祝詞と考えられます。疫病の種類について記載はありませんが、当時の流行の傾向をみるとコレラであった可能性があります。
赤痢蔓延につき浜降祭延期を促す県告諭
赤痢蔓延につき浜降祭延期を促す県告諭
(明治32年、寒川神社蔵「浜降祭日誌」)
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 明治32年(1899)6月28日、神奈川県知事から出された通知。赤痢が蔓延しているため、葬儀、農作業の祝い、親戚や知人との飲食などを禁ずるというもので、さらに祭礼について秋まで延期せよという内容です。
浜降祭開催許可申請書
浜降祭開催許可申請書
(明治32年、寒川神社蔵「浜降祭日誌」)
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 明治32年(1899)6月28日付、祭礼を延期せよとの県知事告諭に対し、寒川神社の丹羽宮司は7月13日に反論を出します。浜降祭は悪疫解除のための古来からの禊神事であるから、衛生管理は万全で臨むのでぜひ実施したいという内容です。同日付けで県内務部長の許可があり、浜降祭は供奉する神輿の数を絞って実施することになりました。

 3 御所見村寒川村組合の避病院

 明治30年(1897)に公布された伝染病予防法では、市町村に伝染病院または隔離病舎を設置することが義務づけられました。これをうけ寒川村は、明治32年7月、隣接する御所見村(現・藤沢市)とともに、隔離病舎を運営するための一部事務組合を結成することとしました。病舎は御所見村獺郷に設けられ、患者が発生した際はここに収容することになりました。この組合は昭和25年ごろまで存続します。
 *詳しく知りたい方は・・・・『寒川町史』16「ダイジェスト」p124、『寒川町史』7「通史」p178
組合会議案及び決議書
組合会議案及び決議書
(明治32年、寒川町公文書)
 御所見村寒川村組合が設置された当初の組合会議の議案書。初代事務管理者には御所見村長和田高蔵が就任し、その後は両村の村長が交代で務めます。隔離病舎は御所見村の開業医からの寄付金をもとに建設したとあり、運営費は両村が毎年100円ずつ分担金を出して対策にあたりました。
獺郷の隔離病舎
獺郷の隔離病舎(平成14年撮影)
 隔離病舎が建てられたのは御所見村獺郷(現藤沢市)で、その場所は寒川村大蔵に接する地点でした。病舎は「避病院」呼ばれていました。

 4 衛生組合の設立

 明治31年(1898)8月1日、寒川村内21か所に衛生組合が設置されました。前年に発布された伝染病予防法に基づき、赤痢等の流行に対処するためのもので、村内の各世帯を20〜50戸ほどの組合に分け、日常の予防や、感染者が出たときの対応などを行うことになりました。
 *詳しく知りたい方は・・・・『寒川町史』7「通史」p173
寒川村田端衛生組合規約
寒川村田端衛生組合規約(明治31年8月、当館寄託 田端自治会文書)
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 明治31年(1898)8月、村内各地に衛生組合が設置されると、それぞれ規約を作成しました。写真は田端西地区の人々が申し合わせた規約。清掃の徹底、害虫の駆除、講習会の開催など日頃の予防、伝染病患者が発生した場合の対応、経費の徴収や支給の方法などを定めています。
伝染病についての注意事項
伝染病についての注意事項(昭和10年5月、横溝宇一家文書)
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昭和10年(1935)5月、寒川村衛生組合から村民に通知された注意書。この年、寒川村で疫痢・赤痢に11名が罹患し、うち2名が死亡したため、より一層の警戒を呼びかけるもので、小児の飲食物に注意すること、家庭内外を清潔にすること、蠅の駆除をすること、予防薬を服用することが掲げられています。

 5 大正期のスペイン風邪

 大正7年(1918)から9年にかけて、世界中でインフルエンザが大流行し、多くの死者を出しました。このパンデミックが「スペイン風邪」と通称されています。世界で5億人が罹患し、死者は1,700万人とも5,000万人とも言われています。日本では、2,380万人が罹患し、39万人近くが亡くなりました。新聞は連日のように感染状況を報じ、神奈川県も予防を呼びかけるなどの対策を講じました。
寒川の動向を伝える『横浜貿易新報』
寒川の動向を伝える『横浜貿易新報』
(大正9年2月3日付)
 神奈川新聞の前身である『横浜貿易新報』は、県内の感染状況を頻繁に伝えています。大正9年(1920)1月23日の記事では寒川村の罹患者が40名であったと報じています。写真の記事には、小学校児童と実業補習学校生徒に予防注射を実施したと書かれています。
予防を呼びかける県のチラシ
予防を呼びかける県のチラシ
(当館蔵 村田武夫家文書)
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 大正9年(1920)1月に神奈川県が作成したチラシ。大きさは195mm×177mm。「流行性感冒」の予防として、注射の接種、マスク、うがい、人混みを避ける、速やかに医師の治療を受ける、といった注意事項が記されています。

 6 戦後の衛生施策

 戦後の寒川町は、より良い衛生環境を築くため、広報記事による啓蒙、講習会の実施、自治会の衛生班の組織化など、町民に向けてさまざまな施策を展開してきました。ここでは『広報さむかわ』に載った衛生の呼びかけの記事を紹介します。
公衆衛生について
公衆衛生について
(『寒川弘報』昭和24年7月25日号)
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 戦後、寒川町が町民に向けて初めて発した公衆衛生に関する呼びかけ。伝染病を未然に防ぐとことで「我が町の衛生を確立し明朗文化を保持」するため町民の協力が必要だとし、清掃、手洗い、ごみの廃棄方法、ねずみの駆除などを徹底するように強く要請しています。
手はいつ洗わなければならないか?
手はいつ洗わなければならないか?
(『広報さむかわ』昭和31年5月号)
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 昭和31年(1956)、町内で赤痢が発生し、11人が罹患、1人が死亡しました。そのため、町は広報で町民に予防を呼びかけました。まず手洗いの励行、次に暴飲暴食を避ける、蠅や鼠の駆除などを訴えています。手洗いやねずみの駆除などはイラスト付きでわかりやすく書かれています。
うがいをしましょう!
うがいをしましょう!
(『広報さむかわ』昭和63年3月号)
 昭和63年(1988)この年、国内でインフルエンザが大流行しました。寒川町でも町内4つの小学校の22学級で学級閉鎖となりました。各学校では手洗い、うがいなどの衛生指導を徹底しました。広報の表紙となった写真は旭小学校でのうがいのようすです。
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